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金沢音楽制作

金沢音楽制作では、楽曲・楽譜の制作と、作曲や写譜などレッスンを行っています。


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80)表現の不自由展と歴史修正

最近話題になっている、「あいちトリエンナーレ」で開催された「表現の不自由展」に関して、いくつか驚くことがあった。「表現の不自由展」についてはリンク先を見てほしい。さて、表現の自由については前回の記事で書いた(「オタク票と表現の自由」)。今回驚いたのは、芸術祭やその表現に関することではない、検閲を肯定する(検閲ではないと言い張る)連中のカキコミで見かけた批判(?)である。

その批判は、キム・ソギョン/キム・ウンソンによる《平和の少女像》(2011)の展示にまつわるものである。《平和の少女像》とは、韓国に設置してある慰安婦像のことである。連中(の一部だと信じたい)は、そんなものを公費の芸術祭に展示するということは、慰安婦の存在を認めたことになる、だから撤去する必要がある、と息を巻いていた。この発言にぼくはひどく驚いたのだ。というのも、慰安婦問題は強制連行の有無が争点だと思っていたからだ。しかし、連中は慰安婦などそもそも存在していなかったというのである。これは、日本人の慰安婦も否定することになるが、それらにも慰安婦はいなかった、と言い張るのだろうか(言い張るのだろう)。

前述したように、慰安婦問題は、強制連行の有無がその争点であると思っていた。たとえば、小林よしのりは『新・ゴーマニズム宣言』(3巻、小学館、1997)で、慰安婦問題について次のように述べ(描い)ている。慰安婦は存在するが、それは商行為である。なぜならば、強制連行された資料が存在しないからだ。つまり、慰安婦は自由意志による職業選択である。したがって、慰安婦問題は存在しない。というものである。まず小林よしのりは、慰安婦はいる、といってるのである。なお、漫画で表れる慰安婦は、水木しげるが1973年に描いた『総員玉砕せよ!』(講談社、1995)の方が古く、また自身の体験であることからも真正性は高いと思われる。

さて、少なくとも1997年の時点では、慰安婦はいたが強制連行はなかった、というものであった。それから約20年後の2019年になると、慰安婦はいなかったということになってしまったようである。この20年の間に何かしらのパラダイムシフトがあったのだろう。一つはインターネットの普及だろうか。ネトウヨ御用達のブログである、「余命三年時事ブログ」の内容を信じて複数の弁護士に懲戒請求をおくった連中の多さ(請求数は13万件)をみると、インターネットが持つ力を思い知らされる(『ゴーマニズム宣言』や『正論』といったものすら読まないのがネトウヨである)。ぼくは、テレビばかりみてると馬鹿になる、と思っていた。しかし、ネットばかりみてる方がよっぽど馬鹿になるのかもしれない(ネットには真実、といった安易な言葉に飛びついてはいけないだろう)。

最後に慰安婦問題に関する個人的な意見を述べておきたい。「慰安婦」の問題は、「特別特攻隊」の志願や「技能実習制度(外国人研修制度)」と同じく、見かけ上の強制性ではなく、当人の自由意志を奪うところに問題がある。つまり、好き好んで慰安婦になることなどありえないという前提があるのだ(いたとすれば、それは特殊な例である)。したがって、慰安婦は国家による重大な人権侵害であり、国家的犯罪である、と考えている。一部の兵士が暴走した、など関係ないのである。ただし、だからといって相手国に謝罪と賠償を、とも思っていない。正直、今更感があるし、日本―韓国間という国レベルの問題ではなく、国家と個人の問題でもあるからだ。未来に生きる我々がすべきことは、慰安婦を風化させず、また美化させないことであろう。

歴史修正主義者による弾圧によって、「表現の不自由展」の展示は中止となってしまった。これはとても重大な事件であり、後後まで語り継がれるだろう。さて、展示では慰安婦だけではなく、他にも昭和天皇や特攻隊など、タブーとされているものを取り扱っていた。それらへの批判内容にも歴史修正主義的側面が多く見られた。その多くは、国家が持つ負の側面を、称揚するものへの転換である。まぁ、昨今の日本は素晴らしい、とする番組や記事の多さから鑑みるにそういうことなのだろう。現代日本で政治的アンガージュマンの作品は退廃芸術であり、弾圧の対象になることが明らかになった。これからは、国家を称揚する美しき公認芸術が要請されるだろう。

2019/08/07


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