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金沢音楽制作

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63)高須のホロコースト否定発言

3月15日、高須克弥が2015年にしたツイートにアウシュビッツ記念館(Aushwith Memorial)から忠告がきた。高須がホロコーストを否定するツイートをしていたからだ。それに対し高須は「全ての歴史は検証されるべきだと思います。これが正しい科学者の姿勢だと思います。検証を禁止された段階でその歴史が都合よく歪曲されたものではないかと疑うのが罪ですか?お答えください。」とツイートした(ホロコーストの否定には二種類あって、一つは虐殺自体が存在しないとするもの、もう一つは収容は行ったが死の大半は病死等によるものだ、というものだ。高須は前者の立場である)。以前から高須や百田といった連中に対して嫌悪感を抱いていたが、今回の件で決定的に嫌いになった(もとからだけど)。今までさんざん検証されてきたであろうホロコーストの否定は、右翼連中からしても迷惑な存在であろう。

しかし素朴な疑問が生まれる。彼(ら)は何を思ってホロコーストを否定するのかというものだ。これに関して、イーグルストン『ポストモダニズムとホロコーストの否定』(岩波書店、2004年)にてイ・ヨンスクが担当した解説が示唆的である(87-101頁)。それに拠れば、ホロコースト(に限らず)の否定は、マジョリティがマイノリティからの異議申し立てを抑圧するための「開き直り」だという。それは、いかなる事実確定的言表であっても行為遂行的作用を持ちうるという前提のもと、否定論の言表全体が暴力的な放言の拡大であるとする(例えば、「上手にピアノ弾くね」が「うるさいから弾くのやめろ」となる)。そしてその放言は過去の暴力を隠蔽するものではなく、現在において移民といったマイノリティに対して暴力を発動させているものであるという。つまり、ホロコーストの否定はマジョリティの安全な立場を守るために、弱者であるマイノリティに対する暴力的な威嚇攻撃だといっている。

なるほど、と思う。もはや議論の余地がない歴史的事実に対して、歴史修正を試みるのは真の歴史を明らかにする、というものではなく反ユダヤ思想といったマイノリティを抑圧することが根底にあるのだ。つまりプロパガンダの一貫である。高須は馬鹿なので何も考えていないのだろうが、そんなことは関係なく、抑圧する開きなおったマジョリティなのだ。また、ヨンスクは冨山一郎『暴力の予感』を下敷きに「暴力が予感されるとき、すでに暴力は発動されているのである。」ともいっている。力が誇示されるとき、権力や強制力とともに表れるのが暴力であろうし、暴力なくして力は誇示できないだろう(暴力論についてはいつか勉強したい)。

前掲書の著者イーグルストンは、ホロコースト否定派は歴史家のフリをして、ありもしない対立を作りもう一方の側が存在するかのように振る舞うといい(歴史修正主義)、歴史とフィクションの違いは記述様式の違いではなく証拠の有無であり、典拠を示せるものが歴史だという。そして、その対策は、決して討論をしないことだといっている。なぜならもう一方など存在しないからだ。彼らは歴史家ではなく暴力を振るう開き直ったマジョリティなのだ。百田は『日本国記』(2018)の上梓をもって自分を歴史家と思い込んでのかもしれない。だが歴史に必要な典拠を示していないことから、あれは歴史ではなくフィクションなのだ(Wikipediaは導入になっても典拠にはなりえない)。

ところで、高須の一連のツイートをみると、高須のホロコースト否定の発言に賛同している人間の多さに驚く(もちろん批判的なものもある)。このようなものをエコーチェンバーというのだろう。この現象は討論の実現を待たず「もう一方」を作り上げてしまう危険を孕んでいる。

2019/03/30


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