作曲・浄書・指導・音響

金沢音楽制作

金沢音楽制作では、楽曲・楽譜の制作と、作曲や写譜などレッスンを行っています。


このぺージで使われている「テクスト」という語は、筆者が解釈・定義したものであり、文学・美学で用いられている「テクスト」とは異なっている可能性があります。正しく(?)テクストを理解したい人はバルトやクリステヴァの書籍に当たってください。当然、テクスト理論の解説をしている訳でもありません。

本論は複数の記事を再編したものです。全体的に修正したいですが、公開しておきます。

音楽テクストとコンテクスト

テキスト、そしてコンテクストは、文芸分野でよく目にする言葉である。しかし、その考え方は文芸のみならず、音楽や美術など、芸術全体に対して使うことができる。本論では、まず音楽におけるテクストとコンテクストについて説明する。次に、実例と照らし合わせて考察する。そして、音楽のテクストはそのままに、コンテクストのみが変化する、脈絡変換理論について論じていく。それでは、テクストとコンテクストとは何かを説明していこう。

テクストとコンテクスト

テクスト (text) 、そしてコンテクスト (context) と言う言葉がある。これらは、主に文学研究で良く耳にする言葉である。まずはこの二つの用語を簡単に解説しよう。

まず、テクストとは人間が意図的に織り上げた物 (texture) を指す概念である。音楽で言えば人の意思が入った音の集まりを指すものである。即ち、テクストという概念の集合の中に、音楽作品などが内包されているのである。分かりやすく言えば、作品が作者の手を離れ、解釈する対象となったものが「テクスト」と言えるだろう。

次に、コンテクストとは、そのテクストを支えるものである。言わば背景である。文脈や脈絡とも呼ばれる。音楽で言えば使用される楽器、演奏する者、演奏される場、演奏される時、音楽そのもの機能などに相当するものである。以上からも分かるように、テクストは変化しないが、コンテクストは変化するのである。従って、コンテクストはテクストを内包していると言えるだろう。

音楽の場と脈絡

現代に生きる私たちは、日々さまざまな音楽を耳にしているだろう。その代表格であるクラシック音楽やホピュラー音楽には、民族音楽をルーツに持った楽曲がある。例えば、バルトーク (1881-1945) や、ライ・クターダー (1947-)たちである。しかし、それらの音楽は本来の「場」が持つ脈絡(コンテクスト)から切り離された「響き」(テクスト)であることを知らなければならないだろう。音楽の「響き」、「場」とはなんなのか。そして人間と音楽の関係について論じていこう。

場と脈絡の関係から脈絡変換へ

癒しの音楽として、グレゴリオ聖歌が挙げられることがある。しかし、本来グレゴリオ聖歌はローマ・カトリック教会の聖務日課やミサなど伝統的な「場」で歌われるものである。それを現代の日本では、グレゴリオ聖歌の持つ「響き」だけを切り取って「癒し」と結び付けた例である。

それでは「音楽の場」について、私の体験談から探っていこう。これは親戚の葬儀に参加した時の事である。葬儀き仏教系の施設で行われた。しかし、仏教系の施設にもかかわらず、バッハのG線上のアリア、ベートーヴェンの悲愴、バーバーのアダージョなどが流れていたのである。もの哀しげな音楽を BGM として流す事で、感傷的な雰囲気を作ろうとしていたと考えるのが自然だろう。そして、これらの BGM は日本のお葬式で流す定番曲となっており、実際『お弔い・お別れの会 BGM ベスト』なるCDも発売されている。これら、西洋のクラシック曲は「新しい音楽の場」を獲得していると言えるだろう。この事例は、その音楽が持つ本来のコンテクストから切り離され、葬儀という新しい「音楽の場」に、「響き」が持ち込まれた一例である。

以上、二つの例を挙げてきた。次はこれらと人間との関わりを見えてみよう。グレゴリオ聖歌は人が神に祈りを捧げる空間に音響を与え、葬儀の BGM は人々に哀惜や感傷を演出させる。即ち、「場」があるからこそ人は音楽を聞くと考えられるだろう。「場」には「人」を結び付ける力があるのである。この「響き」を音楽のテクスト、そして「響き」を支える状況と言えるだろう。今回の場合なら聖務日課などの「場」をコンテクスト(脈絡)と定義できる。即ち、この例ではテクストを別のコンテクストに結び付けた(変換した)のである。音楽学者の山口修はこれを「脈絡変換」と名付けている。次はこの脈絡変換について詳しく見ていこう。

脈絡変換理論

脈絡変換とは何なのか。提唱者である山口は『応用音楽学』(2000:p.78)で次のように述べている。「テクストとしての音楽が伝承され伝播してゆくとき、コンテクストが大なり小なり変化するのが必然である。その過程と結果をtranscontextulalisation(脈絡変換)と命名」と述べている。

小さな脈絡変換の例として、昨日演奏した同一の楽曲を、今日同じ時刻同じ場所で演奏するとしよう。一見すると同じに見える。しかし、そこには昨日の演奏を踏まえた修正や、技術や表現面での差異が生じ、今日の演奏に何かしらの変化が発生していると考えるのが自然だろう。

大きな脈絡変換の例として、ある楽曲が時間や場所、そして民族を超えたなどの場合が挙げられる。一例として、滝廉太郎の《荒城の月》を取り上げよう。この楽曲は元々は中学校の唱歌用に作られた楽曲である。だが、日本から遠く離れたベルギーのシュヴトーニュ修道院では聖歌として歌われている。なお、普段私たちが耳にする《荒城の月》は、山田耕筰編曲の方であることも付け加えておく。

逆のケースを考えてみよう。バッハ《ミサ曲 ロ短調》をコンサートホールに聞きに行くとする。これを分析すると、クリスチャンではない人がミサ曲を、それも教会ではなくコンサートホールで、観客を楽しませるために演奏しているのである。この例から、テクストは同じでも、それを構成する要素が全く異なっていることが分かったと思う。

さて、バッハといえはバロック後期の作曲家である。バロックから古典にかけて楽器や演奏法が発達する。しかし、実はそれら楽器や演奏法は現代と異なっていることが多いのである。そこで、現在では、「ピリオド奏法」と呼ばれる、当時の演奏法を再現したものがある。このように当時のコンテクストを再現するものも、脈絡変換に脈絡変換を重ねた結果だと言えるだろう。

異文化理解へ

以上、脈絡変換について述べてきた。今回の考察から分かったことは、文化接触が大きな脈絡変換をもたらしているという点である。このように音楽のテクストやコンテクストを考えることは、同時に異文化や異なる時代への理解につながっていると考えられるだろう。

参考資料

[コラム一覧へ]