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金沢音楽制作

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119)敷衍する虚構/現実の領域

プロレスラーの木村花さんが自死した。木村花さんは、フジテレビの「テラスハウス」というリアリティ番組に出演しており、その番組内で発生した問題(演出)から、酷い誹謗中傷をSNSを介して受けていたようである。この痛ましい事件は、フィクションがリアルを容易に侵食することを表しているほかならない。フェイクが現実で生きる人間を殺したのだ。

(発端となる問題とは、木村花さんが大切にするコスチュームを、ある男性が誤って洗濯機にかけてしまい、その際に発生した論争のようだ。状況(自死という選択)から鑑みるに、男性がコスチュームを洗濯機にかけたのは、木村花さんが知らない(本気で怒らせるための)台本なのだろう。)

「テラスハウス」とは、一つの家に男女が共同生活する様子を記録し、それを視聴者が鑑賞する、という番組である。様子を記録するといっても、同じく様子を記録した『i-新聞記者』(2019)や『三里塚に生きる』(2014)あるいは『華氏911』(2004)などとは決定的に異なっている。というのも、後者は既に起きたあるいは継続中の「事実」を記録したドキュメンタリーである。だが前者は、これから起こるであろうイベントを台本・演出ありきで記録するもので、それはスクリーンの向こう側の限定された空間で繰り広げられる予定調和なフィクションだからだ。

さて、フィクションであるにも拘らず視聴者は、「テラスハウス」で表現された〈木村花〉に対する憎悪を作品の外側に持ち出し、私たちが生きる現実のSNSで木村花さんに誹謗中傷を行ったのである。これは、〈木村花〉という役を木村花さんというが本人役として演じている、ということに気がついていないからである。ここに、フィクションがリアルへ侵食する様が見られるだろう。

このような事象は少なくはない。たとえば、甲子園球児に代表されるスポーツ選手がそうだろう。彼らを報道を通したスポーツの過程と結果しか知らないにも拘らず、私たちはしばしば、彼らが忍耐強く芯が一本通った誠実な人間である、とまるで人格者として評価してしまう。スポーツの内容と結果は事実であるが、その過程と結果から想起されたイメージ像(観念)を彼らに投影させているのだ。

「テラスハウス」のような番組と、それが生み出す感情は、漫画『銀河鉄道999』や映画『バトルランナー』(1987)といったSF作品にて既に表れ予言されていた。順にみていこう。

『銀河鉄道999』の7巻(新装版)に「戦闘の見せ物がある星・ライフルグレネード」という話がある(初出は1980年前後と思われる)。この話は、本物の戦争を観光の生業にしている星の話である。観光客は、コンバットモルモットと呼ばれる本物の人間と機械による戦争を、ガラス越しに鑑賞しながら食事を楽しむのだ。人が生死をかけて戦う勇敢/醜悪な姿は、『銀河鉄道の999』の世界において非常にエキサイティングなエンターテイメントなのだろう(機械による人間狩りがある世界だ)。

この悪趣味なエンターテイメントをみせる「ライフルグレネード」は、「テラスハウス」と類似した目的をもっている。なぜならば、「テラスハウス」もまた、演出から生み出された愛情や憎悪といったドラマをリアル風な娯楽に落とし込み、それを私たちにモニター越しに享受させようとしているからだ。これは、戦争で殺し合う人間をガラス越しに娯楽として鑑賞させる「ライフルグレネード」と何ら変わらないものである。

哲郎がガラス越しに見た戦争は、ガラスという境界で虚構/現実を区切っているようにもみえる。しかし、ガラスの向こう側で戦う少年ゼーダにとっては、ガラスの内側も外側も、全てが現実だろう。だとすれば、虚構と現実という境界は相対的なものである。そして、それは「現実」の同一性が保証されていない、ともいえる(簡単にいえば現実/虚構の領域の大きさに違いがある、ということ)。

『バトルランナー』は、主人公ベン(シュワルツネッガー演)が、フェイク映像を使った捏造ニュース番組で虐殺を行った憎き犯罪者に仕立て上げられる所から始まる。犯罪者となったベンは、体制に捉えられるもその身体能力に目をつけられ、残酷な国民的デス・ゲーム番組の「ランニング・マン」に強制的に参加されられる。「ランニング・マン」とは、地下空間で順次送り込まれる5人の刺客と戦い、見事勝利すれば無罪となり高額の賞金を獲得できる、というものだ。熱狂するスタジオ観覧者とは裏腹に、ベンが地下空間で見たのは、過去の優勝者(とされる)の死体であった。そして、視聴者がモニターを通して見たのは、またしてもフェイク映像によって捏造されたベンの死亡シーンだ。

あらすじはこのようなものだ。この『バトルランナー』は、木村花さんを巡る一連の動きと類似している。「テラスハウス」もまたフェイク映像(演出・台本)によって歪められた出演者の像を視聴者に伝えているのだ。そして、視聴者はそれがフェイクであると気が付かぬまま現実の人間に、つまり木村花さんという実在の人物にフェイク映像による観念を投影させたのである。

だが、私たちは、『バトルランナー』で流れるベンのフェイク映像をみても、また作中に現れる悪役を見ても、現実の演者に憎悪は抱かないだろう。なぜならば、これらは、映画の中の虚構であるというメタ的視点から、つまり現実の眼前にあるスクリーンを介して、『バトルランナー』という映画をフィクションのまま享受している他ならない。しかし、「テラスハウス」は、虚構(リアリティ番組)と現実(ドキュメンタリー)の区別が曖昧であり、視聴者はさながら『バトルランナー』の世界で「ランニング・マン」がファクトである、と信じ切って熱狂するスタジオ観覧者のようである。

「テラスハウス」は、「これはフィクションである」と明示的に宣言すべきだった(この宣言は、常に真であることが要請される)。虚構を現実のようにあるいは現実を虚構のように見せることは、ある要素の領域を拡大させ、もう一方の要素を侵食してしまう(その境界は峻別できるものではないだろうが)。そして、その結果の一つが、誹謗中傷であり、木村花さんの自死であるのだ。一つ前の記事で、ネットにも希望がある、と書いたが、今は希望より絶望を強く感じている。以前、人の責任をAIに転嫁することを非難した、「AIのせい/ではない」という記事を書いた。それに今回の件を含めてみると、SFで描かれたディストピアな世界は既に到来しているのではないだろうか。

追記(2020年5月25日):他の出演者からの追悼コメントを読んだが、まるで他人事である。それはアイヒマンの「命令に従っただけ」という主張と重なる。だがこれは、「テラスハウス」の出演者は同じ空間にいながらも「これはフィクションである」と認識してた者と、「これはフィクションではない(リアルである)」と認識していた者が混在していたこと示唆しているのではないか(虚構/現実ではなく、観念/実在という問題かもしれない)。いずれにせよ、木村花さんにとって切実な問題であったことは間違いない。

2020-05-24


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