作曲・浄書・指導・音響

金沢音楽制作

金沢音楽制作では、楽曲・楽譜の制作と、作曲や写譜などレッスンを行っています。


[前]〈記事一覧〉[次]

104)ミステリーvs.ホラー

『バビロン』という深夜アニメを見た。野崎まどの同名の小説が原作にあたり、先日最終回を迎えた。この『バビロン』が思いの外面白かったので、可能な限りネタバレにならないよう、その魅力を紹介したい、がおそらくネタバレになるだろう。なお、単に面白かったという話であり、考察をしたものではない。

あらすじは、次のようなものだ。東京地検特捜部の検事正崎善は、ある不正に関わった医師の不審死に疑問を懐いて捜査する。その参考人として曲瀬愛という女が捜査線上に浮上した。正崎の部下文緒は、曲瀬と思われる人物に接触するが直後に自殺してしまう。この事件を皮切りに、曲瀬と接触したものは次々と謎の自殺を遂げていく。なぜならば、曲瀬の声を聞いたものは、死への欲動が抑えられなくなるからだ。また、曲瀬は自在に姿を変える神出鬼没の存在で、どこに現れるか分からず、すでに目の前にいるかも知れない。そんな中、国家による自殺を容認する自殺法が日本の特区で施行され、自殺法は急速に世界に伝播していく。

あらすじを読むと、荒唐無稽で子供っぽく感じるかもしれない。作中では、自殺について倫理面から考察したり哲学的な問いを立てたり、その是非を問う公開討論を開くなど、リアリズムにフィクションを描いている。だが、そのようなロジカルなアプローチを一方的に破壊するのが、曲瀬という存在である。なぜ曲瀬は自在に姿を変えて神出鬼没するのか、なぜ曲瀬の声を聞くと自殺の欲動にかられるのか、これらの説明は一切なく、ただ結果だけがそこにある。

ネットでの評価は、物語に一貫性や整合性がない、自殺法いうテーマに負けている、そもそも曲瀬はなんなんだ、といった意見が多く、当初はぼくもそう感じていた。これは、視聴者が論理的で合理性に基づいた展開を期待していたからの感想だろう。しかし、見終わってみると、ある点においては一貫性も整合性も取れているのでないか、と考えを改めた。それは、「ミステリーvs.ホラー」という対立においてである。

ミステリーとホラーを次のように定義する。ミステリーとは、ある謎や仕掛けを一定の合理性に基づいて論理的に解決しよう、というものだ。一方でホラーは、視聴者を驚かせることに主眼をおいており、そこに合理的な理由は存在しないし必要もない。つまり、ミステリーとホラーは見せ方の違いではなく、そもそもの目的が異なるものである。正崎の行動や自殺法を含んだ背景は、論理的あるいは合理的に問題を解決しようとするミステリーである。一方で、曲瀬の存在は完全なホラーであり、正道が通じる相手ではないのだ。たとえるならば、『名探偵コナン』の世界に喪黒福造がやってきた、というもので、『バビロン』はその実践といえるだろう。

ついで、物語におけるジャンルの強度も見えてくる。たとえば、ミステリーはホラーに勝てないし、バトルマンガはギャクマンガに勝てない、というものだ。正崎らミステリーサイドの敗因は、ホラーの曲瀬と対等に戦おうと、倫理、哲学、政治などの理論を援用したことだろう。いくら理論武装してもミステリーはミステリーでしかないのだ。だが、もしホラーをミステリー側に寄せたならば、結果が変わったかもしれない。たとえば、『シン・ゴジラ』では、強大な力を持つゴジラも所詮は生物である、とリアリズムに落とし込むことで一応の解決がされた。

『バビロン』の魅力は、ミステリーとホラーは、融和することなく独立した整合性をもち、それが一貫されたとこにある。メタ構造に陥いることなく、実に対位法的に仕上がった作品だと思う。一方が他方に隷属するために、とってつけたような設定で対応する方がよほど荒唐無稽である。

いつもに増して取り留めのない記事になってしまった。あまりアニメや映画を見ないし、また小説も読まないので、『バビロン』に類似した作品が他にもあるかもしれない。それに、『バビロン』が、アニメの中でトップクラスに面白い、と感じているわけでもない。ぼくは、『赤毛のアン』『エスパー魔美』『名探偵ホームズ』『ちびまる子ちゃん(1期)』といった作品が好きなのだ。ところで、アニメの表現が90年代をピークに、段々としょぼくなってきている気がするが、気のせいだろうか。

2020-01-29


[前]〈記事一覧〉[次]