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金沢音楽制作

金沢音楽制作では、楽曲・楽譜の制作と、作曲や写譜などレッスンを行っています。


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75)被覆された環境

少し前のことになるが、上野千鶴子が東京大学の入学式で行った祝辞が話題となった。全文は東京大学のサイトで閲覧することができる(平成31年度東京大学学部入学式 祝辞)。この祝辞で話題になったのは、リンク先の「変化と多様性に拓かれた大学」という項にあたる箇所だ。要約すると、「あなたの努力が報われたのは、自分だけの力ではなく、周囲の環境の後押しがあったからだ」というものである。よくぞ言った、と思う。なお、ネット民の反応は「脱成長派のお前が言うな」というものであるが、それはおいておこう(どこに脱成長に関する記述があったのか分からない)。

東大への切符を手にしやすいのは、私立進学校や進学塾に通うことができる環境におかれた者である。学習塾に通うことが普通である、という家庭にいるものが進学するうえで圧倒的に有利であることに異存はないだろう。これは、本人がある能力(この場合は学力)を獲得するにあたっての努力量が、環境によって大きく変化することを意味している。今回、上野千鶴子は「環境」という言葉を使ったが、これは「階級」を指すものでもある(環境の方がより大きい)。すなわち、日本にも階級があり、それに応じて趣味や文化、そして教養が規定される、ブルデューのディスタンクシオンのようなものが存在しており、それを認知せよ、というものである。しかし、今回話題にしたいのは、東大の話ではなく音楽教育についてである。

一時期だが、東京藝術大学の作曲科を目指したことがあった。そのときの入試の日程は、一次が和声、二次がフーガ、三次がソナタ、四次が実技、であった。一次の和声からしてとっても難しいのだが、ぼくにとって最大の難関はそれではなく、四次の実技であった。実技とは、ピアノ演奏やソルフェージュで、ピアノはバッハの《平均律クラヴィーア曲集》や新曲(無調的)の初見演奏であり、それに伴ってソルフェージュも当然難しいものであった。しかし、なぜ四次に実技を設定したのか、という疑問があった。そもそも、三次まで突破したのであれば、作曲家としての素養は問題ないはずだからだ。なぜだろうか。

「ピアノとソルフェージュは音楽の基本となる重要な能力である」。この紋切り型の句は、音楽教育の現場でよく見かけるものだが、もちろん大嘘である(できるに越したことはないという程度だ)。しかし、クラシック音楽の世界において、この二つの能力は、生得的なものとして扱われている。つまり、できて当然なのだ。そして、これらが最も要請されるのは前述した入学試験においてである。その目的は、音楽の基本となる重要な能力を推し量るのではない。受験者の階級を表す装置としての役割があるからなのだ。すなわち、真に生得的であるものを見通すためにである。

前述の二つ能力の獲得は、時間さえかければ「そこそこできる」という程度には誰でも到達できるだろう(そこそこ、というのは全く完璧ではないが崩壊はしない程度を指す)。しかし、そこに18歳までに、という条件がつくならば話は全くの別である。どちらの能力も身体的な慣れや経験が必要であるから、せめて小学生の頃からレッスンを受けていないと厳しいと思われる。したがって、ピアノとソルフェージュの能力を獲得するには、裕福でかつ教養として幼少の頃から音楽を学ばしてくれる家庭に生まれる必要があるのだ。付け加えるならば、藝大に入学する前から藝大の教授に個人レッスンを受けに行く、という風習を受け入れられる環境にである。

だが、ぼくは環境を否定している訳ではない。環境を否定することは今の自分を否定することのほかならないからだ。ぼくがコンピュータがそれなりに使えるのも、大したことのない反骨精神も、環境の後押しがあったからこそ獲得できたのである。しかし、一方で今の自分を否定し、環境を受け入れられずに恨んでいる者も多くいるはずである。それは必ずしも下流階級の人びとを指すわけではない。いくら上流階級にあっても人として心が貧しければ、環境を否定したくなるだろう。昨今、親が子供を、子供が親を殺すといった事件は、金銭的な貧富だけではない、人の心の貧しさが生み出すものだろうと思われる。このような心の貧しさを生み出すものも、また環境なのである。

ちょっと話は変わるが、演奏者のプロフィールを見ると、多くの一流演奏家に師事した、と列記されている場合がある。このカラクリは、「公開レッスン」といった短期集中型の高額なレッスンによるものである。公開レッスンとは、渡航費、滞在費別で30〜300万円程度払うことで、超一流の、あるいは超有名な先生の弟子になれる、というシステムである。つまり、高額な費用は単純な技術の向上を目指すだけではなく、弟子を名乗るための上納金でもあるのだ。そして、高額な公開レッスンを受講できるのは、上流階級に属した者たちであると考えるのが自然である。すなわち、この列記の意味するところは、自分の努力を示すものではなく、自身が所属する環境をアピールするほかならないのである。公開レッスンが全くの無駄であるとは思わないが、何とも浅ましいものである。

芸術をやってる人(に限らず研究者を自称する人)に浮世離れした人が多い、というのは何も彼らが特別な感性や知性を持ち合わせているからではない。自分の能力が環境の中で形成されたことに気がついていないだけなのである。つまり、他者によって付与され獲得した能力であるにも関わらず、自分で獲得した、あるいは生得的なものだ、という勘違いをしているのだ。自分ができることは他人もできて当然であり、できない者は劣っている。すなわち、持つ者と持たざる者という絶対主義的な二元論が前提にあるのだ。だから彼らは、他者に対して奇矯な振る舞いをするのである。これに上野千鶴子は警鐘を鳴らすのである。

再び冒頭で示した、上野千鶴子のスピーチを思い出したい。上野千鶴子は東大でなぜこのようなスピーチをしたのだろうか、ということだ。推測するに、東京大学という日本一の大学の入学を勝ち取った賢い連中ですら、前述してきた環境の差異に気がついていない、と思ったからのことであろう。もちろん彼らをエリート主義に陥らせないためにである。 エリート主義者は、リベラル・コミュニストたちを称揚し、彼らが作り出した「格差」を自己責任である、と言い切る。その立場が多くの犠牲の上に成り立っているにもかかわらずだ。学びは人を支配するためではない、豊かな心を陶冶するための学びなのである。

2019/06/28


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