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金沢音楽制作

金沢音楽制作では、楽曲・楽譜の制作と、作曲や写譜などレッスンを行っています。


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68)コンプレックスと劇伴

自分は特別にコンプレックスを持っていない、と思っていた。しかし最近になって、ああ、これがコンプレックスなのか、と強く感じたものがある。それは、僕が成人する頃が80年代中頃であったならどれだけよかった(希望があった)だろうか、というものである。

なぜ80年代かといえば、一般家庭にコンピュータとビデオゲームが浸透し始めた時代だからだ。1981年にNECからホビーパソコンの「PC-8800」シリーズが発売され、1983年には任天堂から「ファミリーコンピュータ」が発売されている。つまり何がいいたいかというと、ビデオゲームが一般に普及しだした80年代に、その劇伴(以下、劇伴といえばビデオゲームのものを指す)の制作をしたかったのである。もし、あの時代に劇伴をやれていたならば、僕はそこそこ有名になっていたのではないか、などと想像・妄想してしまうのだ。

80年代の劇伴の特徴は、原始的(ストラヴィンスキー風という意味ではない)あるいは抽象化された楽曲でかつそれが容認されていたところにある。たとえば、単純なメロディーと和音だけで構成されたものや、クラシック風な楽曲でも古典的な形式・技法で構成されたものなど、従来の音楽を原始的/抽象的に再現したものであり、本質的に目新しいものではない。このようなものは、楽壇において全く評価されるものではないが、劇伴であればとたんに評価対象となる(音楽の素養を持たないプログラマーが作ったものも含めて)。その理由として、ビデオゲームが総合的な作品である以上に、技術的な制限の存在が考えられるだろう。

原始的/抽象的な楽曲の容認と評価は、同時代のドット絵によるCGと同じく、制作上の制限がそれを可能にしたと考えられる。ここでいう制限とは、音声合成や同時発生音数、そしてメモリといったハードウェアの性能に依存するものである。80年代の劇伴は、こうした制限から始まり、やがてハードウェアの限界に挑戦するようになり、様々な技術によって突破してきた物語があるからこそ、そこに普遍的な価値が生まれ評価されたのであろう(とはいえ、簡単に〈神曲〉認定する聴衆側にも一定の問題がありそうだ)。そして今後、このような状況が生まれるとは考えづらく、劇伴に参加できた作曲家連中に僕はひどく羨ましく感じているのだ。

一般的に西洋音楽における作曲技法は、グレゴリオ聖歌とネウマ譜(11世紀頃の楽譜)が登場して以降、形式/内容が切断されることなく現在まで持続し増大されてきた(常に限界を超えてきた)。中世前期に単旋律だった音楽は、ルネサンス期には複旋律の対位法に発展し、バロック時代で機能和声が付与され、古典派になると楽曲形式や管弦楽に着目する、そしてロマン派以降はそれらを拡張・敷衍していくのである(例外はケージやクセナキスとその系譜くらいだ)。この事象と劇伴を取り巻く環境を比較すると、持続し増大してきた作曲技法や楽器法を(またアマプロやアカデミックなども)一時的に葬りさり、あらたな地平を展開した劇伴の特異性が強調されるだろう。

ところで、近年のレトロゲーム風ブーム(?)のように、自ら制限を設けることで、80年代と同じ条件で制作することは可能ではないか、と思う人もいるかも知れない。しかし、制限という枠組みから外に出ようとするものと、制限という枠組みの中に収まろうとするものでは、本質的に異なったものであろう。そして、なんと言ってもその後に獲得できるチャンスが全く違うのだ(これが最も強い!)。

いろいろと綴ってきたが、要するに単なる妬みである。もし僕が成人するころに80年代だったとしても成功していた保証など全くないタラレバである。しかし、コンプレックスとは本来そういうものであろう。

2019/05/07


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